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自分はRCサクセション直撃世代で、楽曲作り、歌唱法、生き方に至るまで清志郎さんから多くの影響を受けた。幸運なことに自分がデビュー直後に、RCサクセションの活動を停止したばかりの清志郎さんのライブサポートをさせてもらえることになり、しばらく間近で清志郎さんと接する機会を得ることができた。
清志郎さんはやはりチャーミングな人だった。ユーモアを大切にしていて、子供みたいな悪戯が好きで、えらそぶるところがない、シャイだけれどオープンな心を持った人だった。そしてその音楽、存在感は圧倒的だった。
清志郎さんは自分ようなデビュー間もない若造とも一緒に曲作りに取り組んでくれた。そのときに生まれた共作の一つが、今回のアルバムに18年振りに再録した「胸が痛いよ」だ。
この曲は自分が学生時代に作詞作曲した楽曲を元に、清志郎さんの新たなアイデアが加わって完成に至った。具体的には、まず歌い出しのフレーズを自分が清志郎さんに持ち寄ることで、共作が始まった。
歌い出しのフレーズが生まれた時の情景は今もよく覚えている。

その日は30席ほどの小さなライブスポットで、弾き語りソロライブをやる予定だった。ところが自分は、前日からのあまりにもやるせない想いを引きずったままで、とてもライブに集中できるような心理状態ではなかった。
店入りしてからも、持て余した想いをおさめることができず、リハーサルをする気にもなれない。それで、自分はリハーサル時間の大半を放棄して、曲作りに当ててしまった。そのとき、鍵盤の前に座って自分ができることは、ただただこみ上げてくる想いを言葉とメロディーに託することだけだった。お店のマスターも自分も気持ちを汲んでくれて、何も言わずそのさまを静かに見守り続けてくれた。

「胸が痛いよ 君のこと想ってるから 胸が痛いよ 君はすぐにいなくなるから」
このフレーズにはその時の自分の「素直な想い」がよく反映されている。
リハーサル時間に一気に完成させた曲は、その夜のライブでも演奏され、しばらくは自分の重要なレパートリーとなっていたけれど、ある時期から、楽曲全体としては洗練に欠けると感じて、歌うことを控えるようになった。けれど、曲が生まれた経緯には思い入れがあったし、歌い出しのフレーズも気に入っていたから、そのうちにリメイクするつもりでいた。CDデビュー後に清志郎さんとの共作話が持ち上がったときには、すぐにこの曲の一部を持ち寄ることを思いついた。

デビュー当時の自分はまだ大阪に住んでいたのだけれど、東京にも仕事用に風呂なしのボロアパートを借りていた。偶然にもそのアパートのすぐ近くに、清志郎さんの自宅があった。
清志郎さんと東京のスタジオに一日こもって曲作りを深夜まで行った翌日の早朝、ボロパートのドアを叩く音と「リクオ起きろ!」という呼び声に気付いて目が覚めた。
ドアを明けたらそこに清志郎さんが立っていた。
「あの曲完成させたから」
そう言って清志郎さんは1本のカセットテープを自分に手渡すと、すぐにその場を立ち去って行った。テープには小声でギターを弾き語る清志郎さんの演奏が収録されていた。
元歌の持つ「素直さ」「ナイーブ」な側面を充分に尊重した上で、そこにあらたな構成を加えることによって、清志郎さんは、個人的な体験としてではなく誰もが共有することのできるラブソングとして、曲を完成に導いてくれた。その楽曲「胸が痛いよ」は清志郎さんプロデュースのもとでシングルCDとして'92年にリリースされた。

短い期間だったけれど清志郎さんと間近に接することで、清志郎さんの存在は自分の中で増々大きなものとなった。それは自分に大きな刺激と影響を与えると同時に、複雑な感情ももたらした。1ファンという立場から同じ表現者であるという意識を持った時点で、清志郎さんに対するジェラシーや、乗り越えたい、影響下から離れたいという思いも強まっていったのだ。
その結果、自分は清志郎さんの存在から距離を置くようになった。清志郎さんの新譜も熱心に聴くことがなくなった。それは自身の音楽を確立させたいともがき続ける時期の始まりでもあった。清志郎さんの影響下にある「胸が痛いよ」は長い間、自分の中で封印されることになった。

「胸が痛いよ」を歌わなくなった要因はもう一つある。
ある時期から自分の表現があまりにも「ナイーブ」過ぎると感じて、今迄の自分の表現やキャラを捨て去りたい気持ちにとらわれるようになったのだ。「ナイーブ」であることが悪いのではない。けれど、それは自分の感性の一面に過ぎず、もっと自分を含めた人間の多面性、混沌にもふれるべきだと感じるようになったのだ。
当時「胸が痛いよ」を歌う自分は、ピュアで傷つきやすい側面が全面に出過ぎていて、感情に流された表現をしていたように思う。そこにも美しさや説得力はあったのかもしれない。けれど、いつからかはっきりと「泣き濡らしている最中ではなく、涙が枯れた後の表現を目指すべきだ」と意識するようになった。
「ナイーブとの距離感」は長く自分の課題であり続けた。今もそうかもしれない。

「胸が痛いよ」を久し振りに歌うことになったのは、数年前、大阪のFM局が主催するライブイベントで、発売当時その局での月間へビィーローテーションに選ばれたことのあるこの曲を局側からリクエストされたことがきっかけだった。そのときに、局からのリクエストを受け入れて久し振りに歌う気持ちになれたのは、10数年の歳月が流れてもこの曲に思い入れを持ってくれている人がいたことが素直に嬉しく、ありがたく思ったのと、キャリアを重ねて自分の音楽表現に以前よりも自信を深めて、心に余裕ができたことが大きい。
その時には、かってとは違う心持ちで「胸が痛いよ」を歌うことができた。同じ曲でも当時とは自分の表現の仕方が随分と変わったと感じた。長い時間をかけて、やっとこの曲を対象化することができたのかもしれない。

それ以降、年に数回はステージでも「胸が痛いよ」を歌うようになった。再び歌うようになって、この楽曲の持つ力にあらためて気付かされた。
2年前に清志郎さんから受け取った年賀状には「完全復活しました」と書かれてあった。いつからか自分は、勝手に清志郎さんとの再会、共演の機会を予感するようになっていた。
今回の「胸が痛いよ」の再録は、自分にとって18年振りの清志郎さんとのコラボレーションだと勝手に思っている。

ーリクオ   2010年1月12日